Epilogue
「お疲れ様です」
と、テーブルにコーヒーを差し出し、ドクター・ブルーは言った。
時刻は深夜0時過ぎ。ここは開発区のとあるホテルの一室。
窓から見えるのは地上50メートルからの夜景。
先程天使が築いた広大な森は、ネオンや建築物とは無縁の一面の闇と化し、生命の息吹が感じられないそれは、砂漠よりもむしろ冷たく感じるほどである。
「本部からもじきに追加のエージェントが来るらしいですよ。我々は彼らと入れ替わりで本部に帰還せよとのことです」
ふん。安全が確認されたときたら集団でご訪問か。どこの世界でも腰の重い連中というのは、いるものらしい。
試練の攻略から早5時間。
俺はホテルのパソコンに専用機器をつなぎ、ようやく本部と通信できるようになったドクターから、上層部からの連絡事項を聞かされていた。
「しかしこの件が片付いたら次は中国に飛べという話じゃなかったっけ。にも関わらず早々に本部に帰れと言うのは……」
誰かさんの怒りを感じる。
「それからアルくん。君には国連から秘密裏に勲章が授与されるらしいですよ。そして、エクスカリバークラスからの昇格も検討されているそうです」
「は、勲章?それにまた昇格って、なにそれ」
「わからないのですか?あなたはすでに英雄なんですよ。なにせたった一人で天使に挑み、これを攻略したのです。これは機関においても数年ぶりの快挙ですよ。それにあなたが天使の攻略に失敗していたら、あの都市の住民達は全滅していたでしょう。あなたはまぎれもなく何万人もの命を救ったヒーローなのです」
「…………」
そんなことを言ってもなあ……。
たった一問なぞなぞを解いたくらいで勲章やら昇進ときたか。
これはまた随分と気前のいい会社だことで。
「どうしたのです、アルくん。嬉しくないのですか?」
「嬉しいといってもな。勲章なんて人に見せつけてなんぼだろうに、秘密裏にもらってもねえ……。だいたいエクスカリバークラスからの昇格って、すでに俺は最高位だろうに。また新しいクラスを新設でもして、なんか意味あんの?」
そもそもエクスカリバークラス自体が俺のために新設されたクラスだからな。
「んー、でもお給料は増えると思いますよ。他にもさまざまな副賞や特権が付いてくるかもしれませんし……」
「は……。収入も特権も間に合っているよ。だいたい衣食住なら機関にいる限り不自由しないし、これ以上あれこれもらってもな……」
むしろ重荷なくらいだ
コーヒーを飲み干し、外の夜景を眺める。
「結局、今回の試練で俺が得たものなんて、何もないってことか。現地の住民はあの森のおかげで生活が変わるのかもしれないし、機関としてはいろいろとメンツが立つのかもしれないけれど、当の俺はなーんにも変化はなし。全く感じ入ることもありはしねえ」
欠伸を書いてソファに横になる。
「それは……おかしいですね」
「ん?」
ドクターは俺の横に立ち、見下しながらいう。
「これだけの偉業を成し遂げて何も感じ入ることがないなんて。あなたは今回の試練の最大の当事者なのですよ?」
ドクターの声は昼間の震えた声とは違っていた。論理的で感情を抑え、例えるのならそう、“ドクター”のようだ。
「試練を攻略したにも関わらず見合った報酬がもらえない。それは認めましょう。だとしてもあなたには何かしら、これに感じ入ることがあるはずです」
「………」
「命がけの試練に挑む上での恐怖。それに見合った報酬が与えられないことに対する怒り。多くの人間の命を救ったことによる充足感。また他のエージェントたちをを出し抜いたことで得る優越感。どうです?どれかしらの感情を抱いてもいいと思いませんか?」
一度も嚙むことなくスラスラとセリフを紡ぐドクター。
「あなたが今日体験した出来事は、普通の人間が一生かかっても味わえない程凄まじいものです。にも関わらず何も感じ入るものが何もないというのは、つまり……」
ドクターは一呼吸置いて言う。
「それは今日一日、あなたがこの世界に存在していなかった、というのと同意義なのですよ」
「!…………」
一瞬全身に鳥肌が立った。反射的にドクターの方を向く。
ドクターは俺の目を見続けていた。
ぶつかる二つの視線。
部屋の空気が張り詰め、その静寂にただノートパソコンの駆動音が響きわたる。
「……………、ちっ」
先に視線をそらしたのは俺だった。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ、あんたは」
「さあ?どうすればいいんでしょう。あいにく僕はあなたではありませんのでね。あなたがどう生きればいいかまでは、流石に分かりかねます」
「…………」
笑顔で言うドクター。
とことん使えない男だ。いつから哲学者になったんだ、あなたは。
「ただね、僕が思うにあなたは少し周囲に関心を持つべきかな、と。人間時に周りの人や、周りの事態について把握しておくことも大事かな、と」
「……、もういいっつーの」
説教するくらいならもう少し役に立ってくれ。
と、ソファから起き上がる。
「そもそも今はそれどころじゃないしな。帰ったらあいつがどんな顔で待ち構えているか知れたものじゃないし……。それまでに気の利いた言い訳を二つか三つ、考えておかないと」
「あはは、ですからそういうことでいいんじゃないですか」
プラス彼女の怒りをおさめる手段でもあればいいのだが。
土下座で拝み通す、はこの間やったし、貴金属類は効果が薄い。となるとやはり俺得意の甘い言葉で押し通すしか……
「ったく天使の試練よりよっぽど難題だな、これは」
改めて溜め息をつき天井を見上げる。
そこにあるシャンデリアの真白き光が、俺の視界を埋め尽くした。
相変わらずふらふらした俺の人生。この調子じゃ次の仕事でも何が起きるか知れたものではない。
天使の試練を経ても、結局俺が何かを得たというわけではなかった。
このまま俺は永遠に何をするべきか分からず、ただ彷徨い続けるのだろうか。
欠伸を一つ掻く
しかし……、先程ドクターはそれなりにいいことを言っていた気がする。
「俺は自分の周囲について関心を持つ必要がある、か」
なるほど、確かに自分の生き方を決める上で、自分の立ち位置を把握しておくことは重要なのかもしれない。
「……と、なると。やはりはじめに知っておくべきは……」
ふむ。これから本部に帰るとなれば丁度いい。
もう少し俺は、自分の所属する“世界”について勉強しておこうかな。
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