V
世界をつつまんがごとき白色の光。
それが治まった時まず視界に飛び込んだのは、紅の瞳をもった純白と銀の天使であった
自分が立っているのは広さ400坪ほどのコンクリートの平地。
その向こうに見えるのはアラブの砂漠。
一帯に立ち並ぶ金持ち用のリゾート施設。背後に立つのは鏡でコーティングされたミラービル。
見上げれば雲一つなき青空と、見下せば地面に蹲った金髪癖毛のダンゴムシ。
「…………?」
これといって何もない。
先程まで俺がいた、建設途上ビルの空中庭園。
でもそれが、おかしい。
「何だ、何が起こったというんだ。」
これといって変化はない。
何も変化が無さすぎる。
「なんだって言うんです。今回の試練は何なんですか」
何かゲームが始まったわけでもなければ、どこかから何かが現れたというわけでもない。
しかし天使は何も答えない。
もはや言うべきことは言い尽くしてしまったのかのように……。
その時ビルの階下から、悲鳴と足音が響きわたった。
ビル内にいた従業員だろう。慌ててこのビルから避難しようと階段を駆け降りる。
ビルの柵から身を乗り出し下界を覗けば、同じように逃げまとう開発区域の住民達。
尤も逃げようと思って逃げ切れるものか。天使の試練は始まった以上逃げられないようになっている。いくら天使から距離とろうとしたところで、それがどれほどの効果があるものか。
バタンと開いたペントハウスの扉から、黒ひげの社長さんが顔を出す。
「何をしているお前ら!さっさと逃げんか」
心配して見に来てくれたのだろう。自分こそさっさと逃げればよいものを、この義理堅さには感嘆を禁じえない。
「心配いりませんよー。先にお逃げください。我らも用を済ませたら行きますから。」
訝しがりつつもわけありということを察してくれたのだろう。気をつけろ、とだけ言い残して階段を駆け下りていく社長。
さて、と相変わらず横で蹲ったままのドクターに問いかける。
「で?結局どういうことなんですドクター。あなたはこの状況をどう見ます?」
「どどどどうもこうもないですよ。怖いですよ! 天使ですよ! 僕たちも早く逃げましょうよ!」
「…………」
軽く頭痛を覚える俺。先ほどの社長の爪の垢を飲ませてやりたい。
もとより本来この任務は俺一人で天使に挑めというものだった。しかしそれでは心配だと駆けつけてくれた親友。
その心遣いはありがたいのだが、基本足手まといなのはどうしたものか。
「ま、とりあえずその無線機だけでも直しておいてくれません?どうにも今回の試練は俺向きじゃない気がする。できれば[彼女]の知恵を借りたい」
「無線ですか?そ、そうですね。天使が出たら本部に連絡を入れろと彼女からも言いつけられていますしね……」
改めてドライバーを手にとりネジ穴にネジを差し込む友人。
回転するドライバーとネジ。しかしそこからネジは弾け飛び、地面に転げ落ちる。
コンクリの上できれいに円運動を繰り返す錆びついたネジ。
「あ、あれっ?」
再びネジをはめ込もうとするも、やはりドライバーからネジは転げ落ちる。
「…………」
何度やっても結果は同じ。
泣きそうになるのっぽ。
大丈夫か?ネジ穴にネジを満足にしめられなくても科学者はつとまるのだろうか。一瞬彼の行く末を案じるも、このまま見続けていても仕方がないのでほっといて階下のチェックに取り掛かることにした。
建設中のビル内を上から下へと見て回るも、これといって異常は見られない。
打放しのコンクリートの壁にむき出しの配管。辺りに散らばる資材と工具。
段ボールの箱にはアラビア語の文字が書かれ、恥ずかしながら俺には読めなかったりする。
廊下の壁からモンスターとか出てこないかと期待しつつも、残念ながらそういったイベントも起こらず、およそ二時間は経ったころには一通り見て回り、屋上へと帰ることにする。
「おかえりなさい、アル。何か見つかりましたか?」
先程に比べ血色がよくなった友人。何かいいことでもあったのだろうか。
「いや、全く。それより無線機は完成したのかい?ドクター」
「治りましたよ。いやー全く簡単なことだったのです。単にね、反対回しにすればよかったんですよ」
上機嫌に意味不明なことを言う金髪。
しかしどうやら無線機は完成したらしい。
お礼は後回しにして、とりあえずお手製無線機を起動してもらう。
ザザ……ザザザ…………
スイッチを入れると、スピーカーからノイズが響いた。
まるで世界を軋ませるがごとき不透明な雑音。
「もしもし、聞こえますか天使対策機関本部。こちら構成員ナンバー96131018、ブルー・バルムンク。応答せよ本部」
右手のつまみをいじりながら、訴え続けるドクター・ブルー。
『ザザ……、応答しましたミスター・ブルー。こちら天使対策機関本部。状況を説明して下さい』
なんと。通話に成功したドクター特製ジャンク無線機。
ノイズ交じりに聞こえる若い女性の声。
悲しいかな音声はクリアとは言い難いが、まあ専門は生物だしな、この人。
「たたた大変なんです、こちら天使が、アルくんが、真っ赤な目で!僕が、ネジが、本部が、救援を……!」
『………』
賞賛したのも束の間、悲しいぐらいに意味不明な言葉の羅列を口にするダメ科学者。
スピーカーの向こうからもため息が聞こえる。
「あー、もしもし。こちら構成員00000011、ミスター・アルセウス。状況を説明するぞ、本部」
ドクターを押しのけスピーカーに呼びかける。
スピーカーの向こうからもほっと一息。
声質からして20代前半、おそらく黒髪の東洋人か。
「情報にあった通り2時間前、アラブ開発区域において天使が出現した。サイズはA、20メートルクラス。容姿は案山子。外殻は金属質でカラーリングは銀と白」
隣で拍手するドクター・ブルー。流暢に説明できるのが羨ましいらしい。
「試練内容は、本当の自分にたどり着けとのこと。ただしそれが何を意味するのかは現時点では不明。他にメッセージとして自らの存在は過ち、汝らの存在も過ち、と」
天使からのメッセージと、他にビル周辺の様々な状況と経緯を説明する。
およそ2分後、
「というわけで現時点での収穫はゼロだ。引き続き調査を続けるので、そちらでも対策を願いたい」
「了解しました、ミスター・アルセウス。幸運を祈ります」
事務的かと思えば、意外に感情のこもった声。それにつられて少しだけ口を滑らす。
「ところでどうだろう。今回の任務が終わったら食事でもどうだい?君は新人さんか?なんなら仕事のアドバイスでも……」
少々オーソドックスな口説き文句。しかしそこに、
「フフフ、それは素敵なお誘いだな、アルセウス。当然そこには私もご一緒してもいいのだな?」
割り込んでくる別の女性の声。
凍りつく俺。呼吸が止まる。
おそらく本日一番の衝撃。
「フフフ、いい気なものだな。職務中にナンパとは。私というものがありながら……。なるほど、君は私のいないところではそうやって女性に声をかけていたのだな」
鈴の鳴るような美しい声。背中の汗腺が一気に開き、大量の汗が噴き出る。
こういう時に限って音声はクリア。彼女の冷たく流暢な声が、アラブの大気を凍りつかせる。
「や、やあ。ごきげんよう所長どの。お久しぶり。なんつーか、いつに増して声に生気がみなぎっていますね」
まずい、ドクターのどもりが感染してきた。
「ああ、元気だよ、アルセウス。ここ数日の疲れが一気に吹き飛んだ。君が心配で通信室に寝泊まりしていた甲斐があったというものだ。」
冷気から一変、炎を纏ったかのように震える女性の声。目の錯覚か、通信機からは火花が飛び散っている。
声質からして17歳、小柄な美人と推理。おそらく受話器を力いっぱい握りしめて……というかもはや推理するまでもない。
受話器の向こうにいるのは俺の昔馴染みにして恋人にして、天使対策機関の所長どの。名前は……
「早く帰ってきてよ、アルセウス。そしたら久しぶりに一緒に食事でもしようか。本部の夜景を見ながら、さっきの口説き文句をもう一度聞かせてほしいな」
極上の笑みを浮かべたのが通信機越しでも分かる。
やはり一刻も早く通信機を下界へ投げ捨てておくべきだった。建設現場の派遣契約、なんとか延期できないだろうか。
「……、ところで」
もはやいろいろ諦めて、そろそろ本題に移る。
「報告は聞いてくれたな、所長どの。そろそろ今回の試練に対するあなたの考えを聞かせてもらおうか。……いや、回りくどい言い方はなしにしよう。あなたならもう、今回の試練の答えが分かっているのではないですか?」
通信機越しにしばしの沈黙。しかしその数秒後、
「ああ。わかっているとも、アルセウス。正直簡単すぎて欠伸が出る。君が一人で解けないのが不思議なくらいだな」
先程の声が一変。熱くもなければ冷たくもない。一切の人間性を切り捨てた無機質な声に切り替わる。
「そうか、じゃあさっさと教えてくれ。出張にもいい加減あきた。とっとと試練を攻略して本部でアイスクリームでも食べたい」
彼女の無機質な声に合わせて、こちらの話し方もそっけなくなる。
……何故だろう。何に苛立っているのか、俺。
「早く教えろよ、答え。そしたら後はこっちで攻略してやるからさ」
通信機越しに再び沈黙。しかしその後、
「………、教えてあげない。自力でちゃんと攻略しなさい」
「はぁ!?」
無機質な声に、生気が戻った。
「そもそも自分でとかなきゃ試練なんて意味がないだろう。何より浮気者に教えてあげることなどありません。制限時間はまだあるだろうし、もう少し頭をひねってみれば?」
まるで子供が悪戯するときのような楽しそうな声。
「いやいやいや、俺にはわからないって言っているだろう。このままだと俺、アラブの砂に骨を埋めることになりそうだけど」
「大丈夫。その時は私が掘り起こしてあげるから。というか君はいつも自分の力でできる仕事を人に押し付けてばかりで。いい薬だよ。たまには自分で何とかしなさい」
どんどん機嫌が良くなっていく、マイハニー。
よほど俺を弄ぶのが楽しいのだろう。
「まあ一つだけヒントを上げようか。君の時計を見てみるといい。私がこの前プレゼントした腕時計だ。そこにこそ今回の試練を解く上で最大の鍵がある」
この前貰ったあれか。あれなら確かに今日も身につけているが……。
「それじゃあ生きていたらまた会おうアルセウス。君のことは永遠に忘れないよ」
生き残った場合と死んだ場合の両パターンの挨拶を残して切れる通信。
後に残るのはノイズのみ。それがアラブの空の下に虚しく響きわたる。
「それで……その、どういう意味だったんでしょう。所長が言っていた言葉の意味は」
「さあねえ、なんか時計を見ろとか言っていた気がするけど」
抗う気力はもはやなく、おとなしく腕時計を見る俺。左腕……、でなく今日は右腕につけていたんだっけか。
短針長針秒針と、目盛りだけ刻まれたそっけない腕時計。他に装飾らしきものは一切なし。
時刻はおよそ7時を指している。
注目すべきは、秒針が反時計回りに回転していることか。
「…………」
なるほど、これは確かに凄まじい、これ以上ない違和感だ。
ぶっ壊れた、というわけではなさそうか。ならば、この異常は間違いなく、今回の試練の答えと関係があるのだろう。
「ど、どういうことですアル。プラスチック爆弾の衝撃にも耐える、機関特性腕時計が誤作動を起こすなんて」
それはもちろんわからない。が、それが解けた時こそ俺はこの試練を攻略できるに違いない。
吹きつける熱風と太陽がごとき天使の目。
見上げた空はひたすら蒼く、広大な砂漠の中では我らも天使もちっぽけな存在にすぎまい。
されどちっぽけな生命であれど、そう簡単に手放すことはできない。
なぜなら夢の中で見たあの光景は、未だに俺の心を温め続けている。
もし万が一いつか俺があそこにたどり着ける日が来るというのなら、そのためだけでもこの命を生き永らえさせる意味はある。
これは俺にとって初めての天使との遭遇。
今まで、事後処理ばかり回されてきた俺に回された初めての天使との直接対決。
それが果たして幸か不幸か。
俺は生きてアラブから帰ることができるのか。
それとも死して砂漠の砂と化すのか。
あれ?でも生きて帰っても所長に殺されかねないんじゃなかったっけ?
…………。
「ま。マイペースでやらせてもらうさ」
試練は今始まったばかり。
蒼髪と紅の瞳の狭間を強烈なアラブの風が吹き抜ける。
|